音楽好き好き

自由について

f:id:nagura260404:20190917030850j:plainハードディスクを漁っていたら学部三回の頃に受けていた哲学の授業で提出したレポートが出てきまして,当時考えていたことを思い出して面白かったので公開しようと思います.評価はレポート一発で92点となかなか高評価だった気がするのですが,今読むとだいぶ論理が甘いし,よく言えば若い,悪く言えば青臭い感じが微妙に恥ずかしいですね.私の専攻は電気電子工学だったので,哲学書をまともに読んだことが無かったからだと言い訳をしておきます.あと所々大江健三郎っぽい文体になっているのは大江健三郎が好きだからだと思います.自由にちなんで,UAとBJCのベンジーが組んだバンド,AJICOの「フリーダム」という曲を貼っておきます(申し訳程度の音楽要素).長い文章なので,聴きながらどうぞ.

www.youtube.com

 私がこの講義で興味を持った話題は、自由についての様々な哲学者の思想である。講義では大きく分けて三つの自由に関する主張が紹介されたように思う。一つ目はサルトルの主張、二つ目は決定論的思想、最後にアリストテレスとブフハイムの解釈であった。それぞれについて概説する。

 まずサルトルの自由だが、彼は即自存在、対自存在という概念を用いて説明しようとした。即自存在とは単なる物などの、それ自身でしかありえないような自分から性質を変化できない存在で、対自存在は人間のように常に自分の在り方を自分で変えていき、性質が変化し続けるような存在のことを言う。即自存在である、例えばペーパーナイフなどは本質、つまり「紙を切るための物」という概念がそれの創造される以前に存在して、実存するようになる。すなわち本質は実存に先立つといえる。一方対自存在である人間は、世界に生まれて実存した時点では本質は存在せず、生きていく過程で自分の本質というものを獲得していく。対自存在には自分を定立する対自的な自己があり、それがその瞬間瞬間の自分の在り方を決定する。それが実存は本質に先立つということである。生まれた時には悪人でも善人でもなく、自分で本質を得ていく過程は本人の自由であり、故にその結果に関してはすべて本人の責任となる。だからサルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と語った。

 このサルトルの主張を、物理的な因果性を無視しているとして決定論者は批判する。世界は物理法則に基づいて因果的に次に起こることが決まっており、人間もその一部なのだからやはり因果的な行動をとっていると彼らは考える。決定論者のホッブズスピノザは自由と決定論は両立すると主張するが、彼らにとって自由とは何かによって妨げられないことであり、川の水の流れも妨げられていない以上は自由であるという結論に至る。しかし、この自由は一般認識の人間の自由と大きな隔たりがある。

 ブフハイムの思想はアリストテレスの思想を援用したもので、人間は自然的(物理的)な存在であることを認めている点では決定論者と共通している。しかし、心的な存在も認めている。つまり自然的なもののなかに身体的なものと心的なものがあると考える。もっと掘り下げれば、心的現象とは個々の身体的現象がある意図のもとで協調して現れるようにそれを実現しているなにかである。具体的な例としては、「歌を歌う」という意図があり、歌を歌った場合、身体的な現象とは声帯が震えるだろうし、体も揺れるであろう。他にも細部を見ていけばそのような現象はいたるところで起きていると考えられる。しかし、これら一つ一つをただ実現しただけでは歌を歌ったことにはならないだろう。これらの身体的現象を束ねて歌を歌うという行為たらしめている何かを心的現象だと解釈する。そして、この心的な働きが行動の型であり、アリストテレスのロゴスと呼ばれるもので、人はそれを選んで実行に移すか選ばずそのままにとどまるかという自由が存在すると考える。

 このように曖昧な理解ではあるが大きく三つの自由の考え方を学び、そして自分個人の自由に関する考えを今から述べる。

 私は人間の自由というものには明確な定義は存在しないと思うし、強いて定義すれば、ある人が自由であるというのは、その人が他の人よりも自由な場合である。つまり「その人は他の人のできることはすべてできるし、さらに他のこともできる」場合、その人はその人に比べて自由だと言えるのではないだろうか?もっと条件を緩めれば、「他人のできないことをできるならその人はそれに関してより自由である」といえるだろう。自由とは相対的なものである。なぜなら人が誰か(自分でもよい)のことを自由であると認定するには、他の比較対象を暗黙のうちに想定しているから。例を挙げると、窮屈な部屋に自分が押し込められている場合を考える。自分だけがそのような境遇ならきっと自分のことを不自由だと思うだろう。しかし、世界中すべての人間が窮屈な部屋に押し込められていて、過去に窮屈な部屋に押し込められていない人がいたという記憶すらなかったならば、比較対象はすべて自分と同じ境遇であり、自分のことを自由とは思わないにしろ不自由とは考えないだろう。そしてこの世に自分一人しか存在しないなら、何の判断もつかないであろう。自由とはそういった考えのもと議論せねばならないと思う。すると、人は自分より不自由な人間の存在を認識することで自由になることができるという結論がでる。しかし自分よりも自由な存在を認識することで、自分は不自由であるということもできる。結局自分が自由であるかどうかは自分の認識次第である。では自由と不自由に上下関係があるのなら、最大の自由は何であろうかと考えるのは自然で、それはこのように考えられる。すなわち、ある人間が問題とする瞬間に客観的に見て物理的に実現可能であろう行為の集合の中から一つの行為を全て等確率で選択して実行できるとき、その人間は最大の自由を持っているとする。これは、その時空間において他のどんな人間よりも行動の選択肢が多いということを意味している。これはその瞬間に置かれた人間に許された絶対的な自由といってもいいかもしれない。人には物理法則を無視する自由はそもそもない。しかしそれだけでなく、過去の記憶や慣習などにも行動や思考は束縛されている。意思を持って何かを決定するというのは、過去の記憶や慣習に照らし合わせて選択肢を選ぶということだから、許された選択肢を平等に選ぶことは意思で決定している限り不可能なのでこの絶対的な自由とは相反する。逆に絶対的な自由があるということは意思が存在しないということになる。意思のない自由は一体誰にとっての自由なのかという問題に突き当たる。「人は自由な意思を持って行動しているのか」という問いに答えたいというのが自由という話題を取り上げる理由のすべてだと思うが、この問いには本当の自由と意思が両立しない以上否定的に答えるしかない。人は生きていく過程で必ず何かを学び、学ばなければ生きていけない。そして学んだ以上、常識や慣習が行動の選択の幅を狭めていく。しかし自由は上でも述べたように程度の問題なので、ある程度の自由となら意思と両立することは可能で、一般的な自由というのはこのある程度の自由のことを言っていることを勘違いしてはいけない。意思が強すぎれば融通の利かない頑固者となり、自由が過ぎれば、どの選択肢も選び得る故に何の信念も無く周りに簡単に流される軽薄な人間となるからそのバランスが生きていくうえでは大事となろう。

 ひとしきり自由について個人的に定義したが、このような見地から先ほど述べた三つの見解を見ていきたい。まずサルトルは、人間は完全に自由であるから生きていくうえですべての結果は自分の責任であると断じているが、そんなことはないと思う。なぜなら人には完全な自由は上で述べたように考えにくいというか考えられず、明らかにその人が囲まれた環境に影響を受けて行動を決定している一面がある。つまり行動を起こした本人と、そのような人間の行動様式を形作った環境は共犯者であり、責任の一端は環境にもある。すべて自分の思った通りに自分がそうならないのは、自分だけではどうにもならない部分があることのよい証拠である。次に決定論者の主張であるが、これには半分賛成で半分は疑問もある。物理法則にはニュートン運動方程式マクスウェル方程式などがあるが、これらは物体の挙動をよく説明でき、この世はこのような法則によってすべて因果的に起こっていると信じたくなる気持ちはよくわかる。しかし、現象がこの方程式でうまく説明できるというのを実験で確かめたにすぎず、現象がこの方程式通りに完全に従っていることの証明にはなっていない。だから決定論を盲信するのはやはり危険だと思う。しかも、量子力学という光子や電子などごく小さな物体に関する学問があるが、もし決定的に振る舞っていると考えた場合に満たさなければならない不等式(ベルの不等式)を実験結果は満たさないことが報告されているという。つまり決定論的に振る舞わない存在がこの世に確かに存在するという事実がある。人間も小さな粒の集まりだから、この影響が人間にもあるかもしれない。いずれにしろ手放しで賛成できる主張ではないと思う。しかし、人間精神という物理を超越したものと考えられがちな対象を物理的なものだと主張する点はとても素晴らしいと思う。川の水が自由であるという例えは、「水たまりの水よりは川の水の方が自由である」と言い換えるべきだと思う。なにしろ、妨げられないのが自由なら、川の水は川岸方向に水が流れないよう土手に阻まれて自由ではないから。ブフハイムの主張に関しては、これといった反論はない。というより、反論ができるほど理解ができていないし、そういう風に考えるのだなと一意見として納得するしかない。しかし賛成というわけではなく、結局そのような主張が正しいと納得させてくれるような証拠がないと賛成できない。

 まるで哲学の大家に対して不満ばかりのようだが、非常に充実した授業で、興味深かった。もともと関心のあった話題ばかりが授業で取り上げられ、知的刺激に満ちていた。自分では哲学書などは読まないため、授業でいろいろな哲学者の思想に初めて触れることができ、受講してよかったと思う。また、毎度のように下らない質問をしに行っても嫌な顔一つせず真摯に答えていただき感謝している。

 哲学専攻の方から見たら突っ込みどころ満載なんだろうなあと思いながらも,今でも興味のある話題ではあるので,むしろ突っ込みは大歓迎です.ここまで読んでくれてありがとうございます.