彼女からの最後の返信を見失ってから、私は彼とも会っていない。
気まずいというより、どんな顔で向き合えばいいのか分からなかった。
もしかしたら彼は何も知らないのかもしれない。
けれど、私自身が知ってしまった──それが十分すぎるほどに重かった。
そんな春、私は尿路結石になった。
原因は明白だった。
水を飲まず、夜更かしし、座りっぱなしで引きこもりがち。
内臓と感情は、意外とつながっているらしい。
「人にフラれて石ができるなんてある?」
「ある」
そのやりとりが、妙に記憶に残っている。
腰が痛くてベッドから起き上がるのも一苦労だったが、それでもなお、笑うしかないと思えたのは、不思議なことだった。
ちょうどそのころ、妹が京都に遊びに来た。
観光してみたいと言われ、私はヨロヨロの腰を抱えながら案内した。
嵐山、祇園、南禅寺、河原町──
妹は楽しそうだった。
私は、腰の痛みと心の痛みをひたすら黙って抱えていた。
写真をまた撮り始めたのは、研究室に配属され、しばらく経った頃だった。
高校の頃、写真部に入部する際に祖母が買ってくれたデジタル一眼レフカメラ。
大学入学後はほとんど使っていなかったそれを、ふと思い出して手に取った。
あてもなく京都の街を歩く。
鴨川デルタ、北山通、夕暮れのベランダ、空の色。
昔からそうだった。
私は、人を撮らない。感情を避けて、風景の余白に心を逃がしてきた。
だけど、このときばかりは、違った。
「この街を撮っておかなきゃいけない」
そう思った。
6年近く暮らした京都。
何度も迷って、逃げて、誰にも言えなかったことがこの街のそこかしこに染み込んでいた。
就活もうまくいかなかった。
地元の企業、有名企業──三社すべて落ちた。
研究も迷走し、AIとか感情とか、そういう抽象的なテーマばかり追っていた。
形式を整えては壊し、何かを掴みかけては、ふっと手放した。
それでも、写真だけは残っていた。
ファインダーの向こうには、誰の顔も映っていないのに、確かに「今ここにいた」ことが証明されていた。
それが私にとっての、唯一の記録であり、救いだった。